100年後に生きる君たちへ

数学者・名古屋大学大学院教授宇沢達氏の考える「人が中心の未来」

100年後、人類はテクノロジーが進歩した世界でどのような生活を営んでいるのだろうか。数学者・宇沢達名古屋大学大学院教授は、未来の経済や社会の問題に対して数学者の視点からアプローチしたユニークな意見を持っている。宇沢先生との多岐にわたる論点の中から、人類が克服していかなければならないある命題も浮かび上がってきた。

 

人間はまだ人間を分かっていない

 

―宇沢先生は数学において表現論という分野を研究していますが、現代社会や今後の人類に対しても、数学的見地からユニークな見識を持っていると伺いました。本日は「100年後に残したいこと」をテーマに、宇沢先生の考える未来の姿や教育・経済などについてお聞きしたいと考えています。まず初めに「100年後の人類に対して、問いかけてみたいこと」からお伺いします。

 

人類がどれだけ人間の能力を引き出す社会になっているか。それは100年後の人類に課せられた一つの挑戦だと思っています。例えば自動車を例にとってみましょう。ヘンリー フォードがモデルTを世にとうたのは1908年です。つまり、世界規模で見れば、今から100年前はまだ自動車は普及していませんでしたから、多くの人は馬か徒歩で移動していました。その後自動車が移動手段として広く使われるようになりましたが、身体の健康のことを考えると歩いたほうがいい。いかにテクノロジーが進歩したとしても、人類は100年後も歩いていると思う。100年後は自動車などの機械を用いた手段を持ちつつ、もっと人間中心の暮らしの営み、例えば下町には中華料理屋さんがあり、子供たちが街角で遊んでいるというような風景、そういった人間たちの町を残せていたらいいと思います。

 

―一方で、現在、研究が進んでいる先端テクノロジーが社会実装されると、より利便性が高く、高度に最適化された世の中が実現している未来も想像できますが。

 

より高性能で膨大なデータを処理できるコンピュータが生まれたからといって、果たしてより良い世の中になるのでしょうか。実は最適化の点で考えると、詳細なデータはそれほど重要ではありません。よく観測点を増やすことでより正確なデータを得ることができる、と言われるのですが必ずしもそうではない。例えばある地点の風量を正確に測ろうとして風量計を10,000個設置して観測したら、その風量計の影響で風の流れが変わってしまうこともありうる。また、観測データもその地点特有の条件に起因する異常値が増えるようでは意味がありません。重要なのは本質を捉えることです。ですからもっと良い加減に、アバウトにやっていける世の中になってほしいと思います。

 

―100年後の未来像を予想した時、ネガティブな未来、ディストピアを想像する人が多いですが。

 

私は楽観的です。人間はまだ人間を分かっていません。だから人にはまだまだ可能性が秘められていると思います。若い世代やこれから生まれてくる世代は直面した問題に対応して上手く改善していってくれるでしょう。大学にも毎年新しい学生が入ってきます。私も彼らにどのように教えようかと毎回考えるのですが、新たな経験を重ね同じ地点に戻ってくると、全く違うものの見方を見つけることがあります。さながら昔読んだ本を読み返すと新たな気付きがあるように。これからも新しい視点・新しい解決方法が生まれていくのではないでしょうか。

 

―未来の問題は、未来の今を生きる世代が解決していくものだと。

 

実は人間のハードは2万年くらい変化しておらず、直面している問題もそれほど変わっていません。物理学などの研究が進歩し続けているのは、古い問題を新しい方法を使って何度も繰り返し捉え直しているからです。そしてそれは頭の古い老人ではなく、無謀な若者だから挑戦できることが多い。アインシュタインが特殊相対性理論を含む革命的な4つの論文を発表した1905年、いわゆる「奇跡の年」に、彼はまだ26歳でしたから。
人間は生まれた時には何も知りません。何もできない無力な形で生まれ、そこから数多くのことを学び経験し、そして新しいものを生み出す。それは尊いことですし、だから人の未来に期待できるのです。

 

市場経済だけで上手くいくことはありえない

―では100年後の社会の形、特に資本主義経済についてはどうなっていくとお考えでしょうか。

 

100年より少し前、資本主義経済がイギリスを中心に急速に伸長し始めていた時、マルクスは資本主義が包有している問題を鋭く見て取って、社会に労働者の権利を訴えました。また文豪ディケンズも著作『オリバー・ツイスト』の中で資本主義の矛盾について指摘していました。このように100年前資本主義はまだ様々な問題を抱えた新しい思想だったのです。ですから経済学者たちは資本主義に注目し、研究することで20世紀の経済学が発展してきました。20世紀初頭の経済学者フランク・ナイトは「経済学の研究をするのは、欲求を満たす様々な活動を上手く組織化することによって人々の生活を良くすることができると信じているからだ。自分が市場経済を研究するのも(一番最近現れたツールの一つ)その可能性を知りたいからだ」と述べています。またナイトは様々な経済システムが共生しながら社会は発展していくとも説いているのですが、その後経済学はタコツボ化して、他の経済システムを排除し市場経済のみで全てが上手くいく、といった論調になってしまった。

 

―宇沢先生はそうではないと考えているのですか。

 

はい。市場経済が十全に機能して上手くいくことはありえないでしょう。例えば市場では情報が流れる時、中央集権的ではなく、伝播していきます。これは大事な機能だとは思いますが、人体にも臓器などの部位がローカルに制御している部分があるように、社会もローカルでのコントロールが働かないと無制限に肥大化し拡散していってしまうものなのだと思います。コントロールを全て市場経済に委ねた時に上手くいくためには様々な前提条件が必要になり、ほぼ不可能です。全体を統制するのではなく、個々がお互いにネゴシエートしながら繋がっていくことができれば、100年後はもっとバランスがとれた世界になっているでしょう。

 

―現在、市場経済の矛盾は格差という形で世界的な問題になっています。21世紀に入って起こった流通革命・情報革命によって企業は際限なく膨張し、GAFAに代表される世界的企業は人類史上空前の利益を上げるようになっています。

 

大企業はどうしても無限に利益を追求する性質を持っています。ドイツではミッテルシュタントと呼ばれる中小企業が力を持っていて雇用の60%・GDPの50%・輸出の30%を占めるほどですが、彼らは「象がダンスをしているところに自分たちは近づかない」と言って、大企業がシェアを争うビジネス領域とは距離を置くようにしています。

 

20世紀初頭の経済学者ヴェブレンは「有閑階級の理論」などの著作を残していますが、彼は人間には5つの本能、emulation(モノマネ、同じ物差しで人と競争する)、predation(捕食、人のものが欲しい)、idle curiosity(何か目的があるわけではない好奇心)、workmanship(モノを完成させたい、より良いモノを作りたい)、parental bent(仲間を守る)があると説いています。

ここで彼の本能という言葉は現在使われている使い方とは違い、行動の性向と理解していただいたほうが間違いないと思います。この5つを私は五角形の頂点に配置して(左下にemulation, predation, 右上にidle curiosity, parental bent, workmanshipがきます)ヴェブレンの五角形と呼んでいますが、彼曰く「技術者は純粋な好奇心(idle curiosity)をベースにモノを完成させて(workmanship)人に貢献している。しかし銀行家は人真似(emulation)と人のシェアを取る捕食本能(predation)が肥大している」と。

このヴェブレンの五角形に照らせば、大企業はシェアを削り取りたい捕食の本能が前面に出てしまっているのです。