世界的に高く評価される日本のアニメーション。その歴史の中には数々のレジェンドと称される人々がいるが、中でも月岡貞夫氏は「漫画の神様」手塚治虫から「天才」と称され、TVアニメ『狼少年ケン』や『北風小僧の寒太郎』などを生み、1965年に短編アニメ『新・天地創造』で、ポーランド・クラクフ国際短編映画祭グランプリを受賞した伝説のアニメーション作家。環境問題や科学の在り方に鋭く切り込むNHKのドキュメンタリー番組の制作も担うなど多彩な活躍もされている。今回はアニメ界にも造詣の深い未来学者・一橋大学院七丈直弘教授とともに、月岡氏の半生を追いながら、100年後へ伝えていきたい人類への想いについて伺った。
月岡貞夫(つきおか・さだお)
アニメーション作家。1939年生。新潟県出身。高校卒業後、上京し手塚治虫のアシスタントを務める。1959年、手塚が東映動画で『西遊記』に参加したことをきっかけに、絵コンテ・キャラクターデザインを務め、その後、東映動画に入社。『狼少年ケン』で演出とキャラクター設計を務める。退社後は虫プロの作品に参加したほか、短編アニメ『新・天地創造』で、ポーランド・クラクフ国際短編映画祭グランプリを受賞。NHK『みんなのうた』の『北風小僧の寒太郎』や、「サイエンスノンフィクション」シリーズでは環境問題や科学の在り方に鋭く切り込むドキュメンタリー番組の制作にも携わり、アニメーションと実写の表現の最適解を探求する。現在は宝塚大学・特任教授、中國美術大学・大学院客座教授、中國伝媒大学広南学院終身名誉教授。また、日本動漫協会を設立し、理事長として国際交流にも貢献。
七丈直弘(しちじょう・なおひろ)
未来学者・一橋大学大学院教授。東京大学理学部数学科を1994年3月に卒業後、同大学院工学系研究科に進学し、1999年に博士(工学)を取得。2000年、東京大学大学院情報学環の立ち上げに際し、助手として着任。その後、特任助教授、助教授(准教授)として、イノベーション研究およびデジタルコンテンツ分野の人材育成に従事。2010年、早稲田大学高等研究所(WIAS)准教授。2012年から2016年まで、文部科学省科学技術・学術政策研究所で上席研究官として、第10回科学技術予測調査の企画と実施に携わる。2016年より東京工科大学教授・IRセンター長。2020年より現職。研究テーマは、データ駆動型アプローチによる複雑現象の理解。その対象は先端材料から、大学や企業での研究開発、科学技術政策、未来洞察、アニメ製作プロセスまでを含む。
七丈:日本アニメーションを黎明期から支えてきた月岡先生ですが、お話を伺うにあたって、世界のアニメーションの歴史について概観しておきたいと思います。19世紀末に映画が誕生して以降、当時は映画本編と短編アニメーション、ニュース映画が同時に上映されるスタイルが一般的でした。日本でも1917年に『塙凹内名刀之巻』(なまくら刀)が制作され、これが日本最古のアニメーションと言われています。ディズニーも当時は本編映画の付録的存在だった短編アニメーションを制作していたのですが、1937年に世界初の長編アニメーション映画『白雪姫』を公開すると世界的な大成功を収めます。日本でもその流れを受けて東映動画(現東映アニメーション株式会社)が誕生し、1958年には日本初の長編アニメーション映画『白蛇伝』が公開されました。翌1959年には長編第二弾の『西遊記』の制作が決定すると、手塚治虫先生のアシスタントだった月岡先生が制作に参加されることになります。このあたりの経緯について詳しくお聞かせいただけますか?
月岡:『西遊記』を題材にしたアニメーション映画の制作を決めたのは東映の赤川孝一さんです。彼は長く中国にいて満州映画協会などに勤められていた方で、海外展開を図るために東洋的なテーマで作りたいと考えていました。その時に手塚先生が描いた『ぼくのそんごくう』という漫画が目にとまり、これを原作に映画を作ろうと。それで東映の白川大作さんが中心になって手塚先生に監督を引き受けてもらえないかと話を持ちかけたのです。
手塚先生はディズニーが大好きで、ずっとアニメーションを作りたいと考えていましたからこの話は渡りに船。それで二つ返事で引き受けました。ただアニメーション制作については詳しくはありませんでしたので、手塚先生の代理として私が東映動画に派遣されてアニメーション制作を勉強することになったというわけです。
七丈:『西遊記』で月岡先生は実際にどのような仕事を担当されたのでしょうか。
月岡:手塚先生は孫悟空とリンリン、小竜というキャラクターを自分で描きたいとのことでしたので、それ以外のキャラクターは全て私が描きました。また原画や動画だけでなく演出の仕事も。映画学校を出てから7、8年はかかって学ぶようなことを、『西遊記』の制作過程でたくさん勉強をさせてもらいましたね。
七丈:月岡先生はその後、東映動画に正式に入社し、「天才アニメーター」と評されるまで頭角を現します。
月岡:絵を描くのが人よりも速かったこともありますが、小さい時からディズニー映画のフィルムを見てアニメーションの動きを学んでいたことが大きかったように思います。実家がもともと芝居小屋を持っていて、その後、舞台をスクリーンにしたような映画館を運営していましたので。『白雪姫』は小学校4年生くらいから見ていましたね。
-- 小さい頃から絵は得意だったのですか?
月岡:漫画を描くのは大好きでした。新潟の冬は2メートルくらい雪が積もります。家の一階は真っ暗になって、人は二階から出入りします。こうなるとなかなか家から出られず遊びにも行けないので、冬の間はずっと家の中で漫画ばかり描いていました。
-- 家に籠もって漫画を描くようなお子さんだった?
月岡:絵を描くのと同じくらい外で遊ぶのも大好きでしたよ。野山を駆け回り、暗くなるまで帰らない(笑)。木に登るのも得意で、高い所まで登って枝をしならせて、もう飛び降りても大丈夫だなという高さまで来たら飛び降りる、という遊びをしていました。途中で枝が折れて、何度も背中から地面に落ちたりもしています。
-- 活発な少年時代を過ごされていたのですね。
月岡:船を漕ぐのも得意でした。当時は農作物を船で運んでいたので近所の家は皆、船を持っていたのです。それを使って友達同士で競争していました。学校にも行かず船を漕いで湖まで行って遊んでいたり。そんな毎日でした。そういった経験が後の『狼少年ケン』の制作に役立っているように思います。
-- 高校卒業後、上京して手塚治虫さんのアシスタントとして働き始めました。どういった経緯だったのでしょうか。
月岡:当時は日本中の若者が「手塚先生の下で働きたい」と自作の漫画を手塚先生宛に送っていました。当時はまだマンガは単行本貸し本屋の時代ですからファンレターも多くはないので、直接先生が見てお返事もいただきました。それが嬉しくて以後毎年、年賀状と暑中見舞いは出し続けていました。高校2年頃一度先生から「アシスタントにならないか」という内容の手紙を頂戴し、私は後一年待って頂きたいと返信をして、卒業とともに上京したという次第(笑)。
--「絵を描くのが速い」というお話でしたが、それはどのように身に付けたのですか?
月岡:当時、東映動画は美術大学の卒業生を採用していました。私は高卒で、デッサンを正式に勉強したこともありません。だから通勤途中の電車やバスで人を描いて練習しました。見たままを頭に留めてそのまま模写。それをただひたすら繰り返したおかげで描くのがとても速くなったのだと思います。
-- 日々独学でデッサンのトレーニングをされていたのですね。
月岡:そんなある時、ディズニーには3分間で1枚の絵を描くアニメーターがいるという話を聞き、私たちもやってみようと。若いアニメーター12、3人と朝10時から夜12時まで、昼夜の休憩1時間を挟んで描き続けたところ、トップだったのが私で、その時は600枚ほど描きました。
-- 600枚ということは1枚2分ほど!凄いスピードです。
月岡:美大で学ぶのは1枚をじっくり描くこと。アニメーションに必要な連写の技法とは違ったスキルなのかもしれませんね。
七丈:月岡先生はその後『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)などに参加された後、ご自身が企画・原作・監督・原画を全て担ったTVアニメーション作品『狼少年ケン』(1963年~1965年)を若干24歳で手がけられます。
その頃の東映動画には後に日本アニメを築いていく様々な方々が在籍されていました。『未来少年コナン』(1978年)や『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)でコンビを組んだ宮崎駿さんや大塚康生さんも当時の同僚ですね。
月岡:大塚康生さんは東映動画の前身の日動映画株式会社から在籍されていますからアニメーターのキャリアではかなり先輩になります。
宮崎駿さんは私が『狼少年ケン』を手がけていた時の入社です。当時彼は新人アニメーターで、私は作画監督でしたから、直接顔を合わせて仕事はしていないのですが、彼が描いた絵はチェックしていました。私は上がってきた絵の気になる部分に付箋を付けて返し、全部描き直しの時にはホチキスで留めて返します。以前宮崎さんは「月さんは俺の動画をホチキスで留めて戻したんだぜ」と話していたそうです。私は宮崎さんの動画を戻した記憶は無いのですが(笑)。でも宮崎さんもスタジオジブリで若いスタッフに同じ方法で、ダメな絵はホチキスで留めて返しているそうです。