「性格を殺せ。人間の器を磨け」

塗師屋・中津漆器店 中津正克×中津正典 父子対談

「塗師屋(ぬしや)」とは、100以上の工程を要する「輪島塗」の職人たちをとりまとめ、製品企画・開発、製造、行商までの一切を仕切る仕事。そんな数少ない塗師屋のひとつ、中津漆器店は、江戸時代から漆器に関わっています。粒子の粗い銀を用いた技法を編み出し、「輪島塗の銀漆器」という独自領域を切り拓き、その製造から販売まで一気通貫する業態へと進化させた。その作品は上皇后・美智子様ご婚礼の儀の屠蘇器(とそき)に採用されるなど、皇室からも一目置かれる存在である。今回は、稀有な技法を継承する同店4代目の中津正克さんと、5代目を担う息子の正典さんに、伝統と革新が融合した独自技法誕生の背景、職人の眼差し、100年後に遺したい職人像について語っていただいた。

中津正克
昭和20年12月3日生まれ。

 

中津正典
昭和47年9月25日生まれ。

 

 

粗い銀を蒔き漆でとめて、砥石と感性で磨く唯一無二の技法

—中津さんの輪島塗は、一面に粒子の粗い銀を蒔いた独特の風合いが特徴です。これは先代が独自に編み出された技法とのことですが?

中津正克(以下、「父」):14号という粒の粗い銀を使ったのは、私の親父(3代目)が初めて。
粗い銀を使った漆器は、どこの美術館にも出てないね。細かい銀は塗った後に摩擦で平らにできるけど、粗い銀はそうはいかん。金みたいに軟らかくないし、研がなければいかんので。


中津正典(以下、「息子」):この砥石を使います。中塗漆の上に銀を蒔き、上塗りで埋めてから研ぐのですが、粗い銀は非常に硬いので、細かい銀のように炭を使って研ぐと炭が割れてしまうんです。だから、刀を研ぐときに使う砥石「青砥」で、商品の角度に合わせて砥石を作り、根気よく研がないといけない。

しかも、研ぐ角度と強さが面に対して一定でないと、銀にムラができて失敗してしまいます。
器の曲線に沿って均等に研がないと、研ぎすぎて今度は銀が破れてしまう。そうなったら、銀を研ぎ落とし、中塗りからまた全部やり直しです。


父:一発仕事。神経使うよ。集中力やね。しかも粗い銀はなかなか光ってこない。破ったら終わり。
研ぎながら光を出すのは、大変よ。習得するまで30年はかかったかな。

漆器の仕上げは指で磨く。「自分のコレ使うわけ」と見せてくれた指は、変形していた。

 

-これは凄い。まさに熟練の技ですね。先代はどのようにこの技法を生み出したのでしょうか?

 

父:もともと親父は職人でなく塗師屋だった。あの人は、凄く勘のいい人。技法も生み出し、俳句もかなりのもんだった。文化人だったね。そうでなきゃ、これだけのもんは創れん(笑)。

私も俳句は好きで、入賞するくらいには嗜んどるけど、まだまだ。俳人の中原道夫とは、兄弟みたいな仲でな。中原道夫は大学を出て株式会社マッキャンエリクソン博報堂に入って、俳句で新人賞を取ったのよ。
それで、大手町の画廊で、中原さんは掛け軸を並べて、私は漆器並べて、そこから自分で作品を売るようになったわけ。

 

—なるほど。本物の藝術に触れることが、新しいものを生み出すことにつながっていると。


父:職人もいろんな人と縁をつないで、感性を磨かないと。職人は一人で固まりよるし、喋り方も何も知らんがいや。だけど、例えば俳句の道に入ると、大学教授やいろんな人がおる。自分が作った句を自分では「いいな!」と思っていても、いろんな方向から見られると改善しないかんところも見えてくる。

技術も一緒や。だから、若いうちに音楽でも書でも何でも習えばいいし、触れてきた文化を肥やしにして「こういうものを作りたい」って考えられるようにならんといかんね。

県の俳句会で一位を獲得した句。「鰤網のたぐる千鈞渦となし」。定置網で水揚げされた大漁の鰤が網の中を旋回する様子を詠んだ。

 

 

漆器は喜怒哀楽を映す。「性格を殺し、人間の器を磨く」

—一発勝負の集中力を必要とする技法を継承するには、製作に臨む精神性も鍛錬が必要だと思います。
どのように継承されているのでしょうか?


父:教えるわけじゃない。塗りの仕事は喜怒哀楽が必ず仕事に出る。だからまず一番は、わが身の性格の器を直さな。自分で自分を一人前にして、自分の性格を殺すんや。イジイジした気持ちで仕事にあたったら、必ず仕事に出る。次の日に見ると分かる。だから、腕のいい職人は、自分の性格を殺す。そうでなければ絶対一人前の職人にはなれん。たいがい最初の1カ月で3つか4つ研いでいくとねをあげるよ。

息子:私は、銀を蒔いたぐい飲みを左手で持って右手で研ぐと、1日目で肩凝って、2、3日ぐらいから吐き気を催すようになった。子どものとき見ていたのと、全然違う。やってみたら、はじめてどこが難しいのかも分かってくるし。だから親父、ようやっとるなぁと思う。

 

父:職人のピークは、50代から60代。息子は今49だけど、いつかは俺みたいな仕事をするだろ。だからそれまでの間は、俺が作らないとね。

—正典さんが49歳。まさにこれからピークに向かうところですね。

息子:それが俺、30歳までサラリーマンしとったんです。石川と富山で。

 

父:輪島の漆器といえば、繊細な仕事やし、何年も弟子して給料も入らん。その点、サラリーマンになって出ていけば、給料あるからな。だから皆出ていくのよ。塗師屋は大変よ。だって、毎月給料もらえるのともらえないのとじゃ、もらえるほうがいいやろ(笑)

—幼い頃から継ごうと思ったことは?

息子:なかったです。輪島はそりゃ有名だけど、先立つものとかいろいろ考えると、どうしてもね。
私、サラリーマンしとったときは実家に一度も帰ってきたことないね。経営状況も知らんかった。


父:皆そんなもんや。

息子:でも親父の体調が悪くなったと母から聞いて。そんなに強い覚悟があったわけじゃないけど、
弱っとる親父の姿見て、「迷惑をかけたし、帰ってもいいかな」と。そんな感覚で戻ってきました。


—実際に親父さんと仕事するようになって、どうでした?

息子:ほいで、それまでは小売業だったから、売るのと手仕事とはまた全然違ってくるし。さっき親父も言っていたように、手仕事にはどうしてもその日の心持ちのボロが出るもんで、そこもまた違うなって。
親父はようやっとるなあと、感心しましたよ。ほんとに。

 

—職人も国産漆の生産も減少する中、今の輪島塗の状況をどう見ていますか?

父:先日来た人が言うてたけど「中津さん、こんなもん、日本で売らんと、ヨーロッパで売れば売れるわ」って。でも、ヨーロッパにつながりないでな(笑)。

 

息子にも言ってるんやけど、日本文化は、日本の一般大衆に興味を持ってもらわないかんと思う。
職人もおらんくなってきて、分業でなく、これからは自分で始めから終わりまでできないといけない。今は木地屋に頼んどるけど、木地屋も息子の代が継ぐか分からないよ。だから、自分でできるようにならんと。

 

息子にはこれまでの輪島塗の技法とは全然違うこともやらしとる。動物や、食器など一般の人にも興味持ってもらうためにね。技術の継承、新しいことへの挑戦、そして食っていくこと。そこを考えて、いろんな製品を作ってんねん。人真似では作れないものを、下地から全部自分で手掛けられるようにって。