シーサー職人の祈り「未来永劫『恵まれた魂』が続くよう」

陶工・やちむん家 新垣光雄×新垣優人 父子対談

やちむん家(沖縄県読谷村)三代目・新垣光雄さんの手から生まれる作品は、圧倒的な迫力と凄みのある表情を湛え、素人目にもそれとわかる個性を放つ。眼光鋭い龍に、躍動感あふれる筋肉質なシーサーは、今にも動き出しそうなリアリティで守護神として鎮座する。息子の新垣優人さんもまた、父の作品に魅了された者のひとりだ。2015年に京都・清水寺に「祥雲青龍」を奉納した父とその作品に憧れを抱き、陶工へと道を定めて7年が経つ。今では指名の電話がかかってくるほどに成長した「息子から刺激をもらっている」と眼を細めながらもさらなる高みを目指す光雄さん、「いつかは父を超えたい」と意気込む優人さんに、世代を超えて繋がるモノづくりの情熱、シーサーに込めた人類の未来への祈りについて伺った。

 

新垣光雄(あらかき・みつお)

1966年生まれ。「窯元 やちむん家」代表。学生時代から父・栄得、兄・栄一の手伝いをし、卒業後、手作りシーサーと龍を専門に制作。父を師と仰ぎ今も模索中。1989年第41回沖展奨励賞を皮切りに、1992年第44回沖展入選「飛獅子」を始め数々の入選実績を残す。厚生労働省玄関前「大頭シーサー」、イオンライカム「巨大シーサー」他5店舗のシーサー、福島東日本震災復興祈願シーサー「てぃーだシーサー」寄贈、清水寺門前会「祥雲青龍」制作などの陶歴を持つ。

新垣優人(あらかき・ゆうと)

1994年生まれ。大学3年から父・光雄のもとでシーサー作りを学び、卒業後は本格的にシーサーや龍などを制作する。2018年第70回沖展入選、2019年第71回沖展うるま市長賞及びみんなの一点賞、2020年 第72回沖展入選。Instagramで作品を発信し、2022年8月現在、世界各地からのフォロワー数は2.8万人にのぼる。

 

『新垣光雄だから』やちむん家に入った

―新垣光雄さんの迫力あるシーサーや龍などの作品は、沖縄県にとどまらず全国から引く手数多です。2015年には、京都・清水寺に大作「祥雲青龍」を奉納されています。まずは、こちらの作品の誕生秘話について聞かせてください。

新垣光雄(以下、父):作品の依頼元は、清水寺の門前・清水坂に並ぶ老舗や店舗で構成される清水寺門前会です。会の創立30周年を迎える2015年、清水寺の行事「青龍会(せいりゅうえ)」15周年を記念して龍を奉納したいということで、当店のお客さんを介して紹介頂きました。

実際に門前会の方々が店で私の作品をご覧になり、そこから制作がスタートしたのですが、なにせ高さ2.8mの作品など、それまで作ったこともなくて。通常は大きい作品でもせいぜい1m前後。難しい仕事でしたね。約半年間、清水寺の龍だけに集中して作りました。

私はすぐ断ることができない性格で、やってみてできなかったら、研究してまたやってみる。これが自分の身になるし、引き出しも増えていくものです。だから絶対「NO」は言わないですね、自分のためにもお客さんのためにも。

新垣優人(以下、息子):父が清水寺に龍を奉納した2015年の11~12月頃、僕は福祉に携わる仕事に就こうと、介護施設で実習中でした。でも実際に人対人で仕事をしたり、介護現場の実態を目にしたりするうちに、何か違うんじゃないかと思うようになってしまって。

ちょうどそのとき龍の奉納があり、素直に父の仕事を「かっこいいな。自分もやりたい」と思うようになりました。龍の作品自体がとても大きかったし、造形も素晴らしい。当時は素人だった私の目にも、凄さが伝わってきました。しかも「清水寺」なんて、誰もが知っている有名なお寺じゃないですか。

ほどなく老人ホームでのアルバイトを辞め、父に「やっていいね?」と申し出て、やちむん家の一員になりました。

父:そうだったね。リビングで普通に会話していて、「自分もやりたいんだけど」って言いだした。私も「やるんだったら、いいさー」と返事しましたね。

私は最初から親の背中を見てすんなり工房に入ったけれど、息子たちはやりたいことがいっぱいあるはずだと思っていました。押し付けられて上手くなる仕事じゃないし、最初は好きにならないとできないことだから、「自分の道、拓いていったらいいよ」と言っていました。

とはいえやっぱり、「やりたい」と言いだしてくれたときはとっても嬉しかったですよ。

息子:あれから7年が経ちますが、焼き物を始めてからずっと楽しいです。土もみして、自分の個性が出せる作品を作って、焼いて、お客さんに気に入られて買ってもらう。自分の作品が売れるのがとっても嬉しかったです。

技術も上がっていくから、大きい作品を作ったり、「自分のシーサーが欲しい」と注文してくれるお客さんも増えたりすると、本当に嬉しいし楽しい。

父:楽しそうに伸び伸び作ってるね。

最初は枠のなかで作れないといけないから、一応土もみや型入れを教えたけれど、その次のレベルになると、教えてできるものじゃない。「自己流でやれ」って、ほったらかし状態。「自分で気付くんだったら、おまえの身になるからな」と、見守っていました。自分で気付いて上がってきた人間は、本物だから。

息子:今でも制作中に困ったときなんかは、父……親方のシーサーを見ると「あ、こんなふうか」とヒントをもらいます。僕は、「父だから」というよりも「新垣光雄だから」、新垣光雄の作るシーサーや龍が好きだから、やちむん家に入りました。だからやっぱり、影響を受けている部分があるかもしれません。

親方の作品は、本当に動物らしいというか、動きが凄いんです。作り慣れた形とは違う形を作ったときでも、安定していい作品を完成させます。

父:ちょこちょこ見に来るから、そういうときは「あ、見に来てる」って嬉しいです。「気になってたんだー」って。

 

「お前のは、沖縄のシーサーじゃない」で火がついた

―作品づくりでお二人が一番大切にしていることは何ですか?

父:自分の芯はありつつも、やっぱりお客様に愛されるシーサーを作るということ。シーサーは、妻が夫を、夫が妻を探すように、一生に一度の大切な相棒になります。屋根にしても玄関にしても、くっつけたり外したりできないですから。

だから、お客さんが求める作品を作り、納得して置いてもらうことが大事です。出来上がった作品を見たお客さんがいい表情をしていたら、それが自分にとって一番のご褒美ですね。

息子:僕はけっこう自由に作っています。お客さんから注文を頂いて、家紋とか色とかの希望はお聞きしますが、あとは「こうした方がいい」と判断して作ります。お客さんの話も聞きつつ、自分でもレベルアップできるように制作しているという感じです。

父:シーサーの伝統的な形も一応はあるんですけど、「こう作らないといけない」という決めごとはないんです。敢えて「やちむん家の伝統」があるとしたら、それは個性。自分の個性を出しながら、今の時代を生きる人たちに求められるシーサー、後世まで残り続けていくシーサーを作り続けていくことが大事です。

求められて残っていかないと意味がないから、私はお客さんの言葉をとても大事にしています。どんなシーサーを求めているのか、細かいところまで知りたい。だからいろんな質問をしますし、展示会ではお客さんに混じって会話に耳を澄ますこともあります。


―やちむん家のシーサーは、私がこれまで見てきたシーサーとは異なる趣があります。最初の頃は異端視されたのでは?

 

父:言われましたよ。「お前のシーサーは沖縄のシーサーじゃない。本土の駒犬とか外国の何かが混ざってる」って。もう皆がいるところで言われました。

ショックでしたよ、先輩方にそんなふうに言われたことが。愛されるシーサーを作りたくて一生懸命だったのに、「自分はちょっと違った道に入ってるんだろうか」と。でもこれを言われた後に反発精神が出てきました。もう抑えきれなくなってしまって、「もっとやってやろう!」と奮い立ちました。

今となっては「やちむん家といえばこの表情」と認められるようになりましたし、「やちむん家に行けば難しい注文も断らないだろうから」と、組合からもいろいろなお客さんを紹介してもらえるようになりました。ありがたいことです。結果オーライですね。

「どんな作品を作ればいいか」という問題とはまた別のところで、つらい時期がありました。9.11事件の影響で、沖縄に人が来なくなったときのことです。

沖縄には米軍基地がある上に離れ小島なので、警戒心から卸し屋さんもお客さんも誰も来ない。その時期は、作品を作っても行き先がないし、この先この仕事を続けて行けるだろうか、別の仕事を考えなくてはならないのでは……と、追い詰められました。

でもやっぱり、こんないい仕事はありません。沖縄に生まれて、親のもとに三男として生まれて、本当に感謝しています。親だけでなく、周りの人とのつながりにも感謝です。

 

「やちむん家」って、沖縄の方言で「焼き物の家」。最初家族だけで始まったけど、今では家の外からもスタッフが入ってきてくれました。沖縄には、「いちゃりばちょーでぃ(出会ったら兄弟)」という言葉があります。スタッフも兄弟のような気持ちですし、やちむん家を訪れる方々との出会いも大切にしたいですね。